燕雲台 舞台は遼、初の征服王朝・・・え⁉️
前から気になっていた『燕雲台』がユーネクストで見放題になったと聞き楽しく視聴を開始したのですが、どうにも気になることがあります。
解説です。
初・・・なの?
征服王朝とは漢民族以外の民族が開いた王朝を指すと習いました。
鮮卑族は漢族に含まれるの?
ネットって凄い‼️
こんなこともヤフー知恵袋には回答されるんだ。
「征服王朝」に「浸透王朝」⁉️
ドイツ系アメリカ人研究者が行った区分に中国の人たちも従ってるということなのかな。
中国の国内向けの解説でも「中国史上初の征服王朝」って言ってるの?
なんだか色々驚きなのですが。
この時、漢民族の民族衣装で唐代の衣装のデザインもありだったのは、少なくとも唐代を異民族による王朝とは見做してないからなんだね。
漢民族の皆さんがそういう認識なら文句はないですわ。
唐代の衣装、めっちゃ素敵だし❤️
大唐流流 皇后はあの長孫無忌の妹だったの⁉️
ドラマは終盤42話まできました。
41話のショックから立ち直れてなかったのに、皇后様まで・・・・・(涙)
なかなかこんな立派な皇后様にはお目にかかれませんわ。
俳優さん、素晴らしかった‼️
で、調べますと、夫が太宗・李世民なら皇后は長孫皇后の一択でして、長孫?と思ったら、あの長孫無忌の妹なんですって⁉️
えーーー
だって、お兄さんなんて影も形もなかったじゃん。
実のところ、「あの」って言うほど長孫無忌を知ってるわけじゃないけどさ。
でも名前は聞いたことあるわけさ、房玄齢とか杜如晦の次くらいに。
智恵とアイディアの房玄齢・杜如晦、武の長孫無忌、みたいな。
ぶっちゃけこの3人とあと1人くらいしか名前を知らないのに、一切出てなくてさ、それで玄武門だけでこの時代を察しろって言われても(← 誰に?)。
ウキペディアや考察ブログを読む限り、かなり史実に従ったストーリー展開だと思うのですが、なんで太宗・李世民の治世の話です!ってなってないの?
なかなかのぶっ飛び設定もあった『独孤伽羅』はしっかり『独孤伽羅』だったのに?
般若姉さん❤️宇文護だよ?
おまけに子どもだよ?
これが実名OKで、『大唐流流』では李世民という名前が出せない理由が全くわかりません。
漢民族には民族衣装がない⁉️
中国ドラマとは直接関係ないのですが、かなりビックリしたので書かせていただきます。
地球上で最も長い歴史を持つであろう中国の漢民族。
その彼らに伝統衣装・民族衣装がないなんて、そんなことあります?
いっぱいありすぎて1つに決められない、なら理解できますけど。
そして、番組を観ていて ん?と思うことが・・・・・
漢服は基本的には漢時代の衣装で、漢民族の「漢」も漢時代から来ているなら、漢民族・漢時代・漢服は容易につながります。
唐は?
唐は北方民族が政権に就いていて、とりあえず漢民族の王朝じゃないですよね?
でも番組の中でも漢服には唐時代の衣装も含まるような紹介がありまして。
唐時代の衣装がありなら時間的に1番近い清朝のもよくない? と思ったのです。
これって唐時代の衣装ですよね?
細長いスカーフみたいのあるし。
こちらのヤフー知恵袋によると
「中国語では「帔(pei)」または「帔帛(pei bo)」と呼ぶのが一般的なようで・・・
魏晋の頃から使われ始め、唐代に流行り、宋代には廃れていったといわています。」とあります。
南北朝時代に北朝で始まり、北朝の集大成ともいうべき唐時代に流行した、と。
北朝は遊牧騎馬民族の王朝で、漢化政策をとったから隋王朝の皇帝は楊で、唐王朝は李で、一見すると漢民族っぽい姓だけど、民族としては北方民族だと理解しています。
漢民族との婚姻がすすんでいるから細けーことは気にすんな! というなら、清朝の衣装でも・・・以下略
それはさておき、素人が見て、唐時代のこの衣装から朝鮮王朝のチマチョゴリは違和感ないな〜と思います。
胸のところでフワッとしたスカート?を留めたセパレートの感じは、丈の短い上着をきたらそのままチマチョゴリじゃないですか?
(あくまでも中国・唐から見た場合ですが)懸案だった高句麗を滅ぼしたのは中国史上唯一の女帝武則天で、彼女が活躍した武周は唐の最盛期。
朝鮮半島には唐の文化風俗が流れ込んだはずで、最先端の唐ファッションが朝鮮半島を席巻したなら、なるほど!と思います。。
それで行くと、上下が一枚でつながっている和服はどこからきたんですかね?
唐に支配される前の朝鮮半島の衣装かな?
大唐流流 唐の太宗・李世民の話だった⁉️
今、私が住む福岡ではBS12で放映されている「大唐流流」。(BSは地域関係ない?)
ネットで調べると、あの『貞観政要』の太宗・李世民の時代の話らしい!
やけにイケメンで言動がご立派な皇帝だなぁと思っていたけれど、太宗・李世民陛下でしたか‼️
父の李淵がいとこでもある隋の煬帝を倒して唐を建国したとされているが、実際の立役者は次男の李世民と言われている。
その後、皇太子だった兄を殺して、父を退位させ皇帝の位についたのだとか。
ドラマで皇帝と太上皇の仲が微妙で、太上皇は皇帝を嫌っているのにどうして皇位を譲ったんだろう?と思っていたのだけど、なるほどその辺りは史実に基づいているのね。
作中で盛楚慕が一時期任された玄武門。
これって李世民が兄の皇太子を暗殺した場所だよね?
その事件のことを玄武門の変っていうくらいだし。
どこかで聞いたことある門だな〜と思ったけど、匂わせてたのか⁉️
ごめんね、気がつかなくて。
大唐流流はストーリーもいいけど、私は衣装や髪型に惹かれている。
こちらはオープニングの映像
素敵すぎるでしょ!
まるで天女のようじゃないか‼️
そうよ、天女
吉祥天女だよ〜
太后たちの私通 ユエさんと義渠王の結婚など
私が主張したいのは私通って言うな!!
じゃあ何と言えばいいかって?
官職の付与とか、位を授けると言う意味の叙位とかでいいのではないでしょうか。
自分を守るため、家族を守るため、国を守るためにやるしかない行為を私事(わたくしごと)で表現しませんよね?
前回も書きましたが、幼い息子の即位は母である自分が王になるのと同義です。
国を治めるのは大事業ですから、1人ではできません。
他の人の助力が必要です。
国政において、武が足りなければ武に長けた、文が足りなければ文に長けた、強力な助っ人が必要なのです。
協力の証として、男女の関係になるのもありでしょう。
そもそもこの時代の王族の結婚は最大級の公的行事で、個人の感情は後回しなのに、太后の男関係だけ好いたはれた言うのはヘンですよ。
国を治めにゃならんのです。
四の五の言っておれんのです。
体くらい提供しますよ、減るもんじゃなし。
皇帝が幼い場合などに、皇后や太后といった女性が代わって政治を行う垂簾聴政(すいれんちょうせい)は、戦国時代のみならず清朝に至るまで、中国の歴代王朝の伝統です。
司馬遷が仕えた漢の武帝も、即位した当初は祖母の太皇太后に実権を握られていたわけだし。
宣太后は義渠王と男女の関係にあって、子どもを2人ももうけ、最後は殺した、というのは史実なんですね。(『史記 匈奴列伝』)
『ミーユエ』では易后と蘇秦がいい感じ❤️でしたが、史記によると、蘇秦の相手は易后ではなく易王の母とされています。
易王は母と蘇秦の関係を知って、ますます蘇秦を重用したとの事ですから、王位継承後の政権が不安定な時期に、太后が有力者と関係を築くことは、或いは積極的に推奨された行為だったかもしれません。
宣太后が義渠王に接近した理由は『ミーユエ』で黄歇が説明していた通りだと思います。
“隣国の趙では、武霊王が胡服騎射を推進した結果、趙軍は負け知らずになった。
これまでは、多くの戦車を持つことが大国の証だったが、時代遅れだ。
敵に打ち勝つには、強い騎兵がものをいう。
馬と共に暮らしてきた義渠軍は、騎馬術に長けるが、武器や戦術は得意でない。
秦軍は弩弓や甲冑を扱い、戦術を駆使する。
これに義渠軍の騎馬術を組み合わせれば、秦は天下無敵となる。”
(『ミーユエ』73話より抜粋)
(これを楚の春申君に言わせるのは、どうよ?とも思うわけですが)
北方騎馬民族というと長城を築いて侵入を防ごう!となりがちですが、発想を変えて、
彼らの技術を取りこうもう!
というのは、素晴らしい!!!
戦国時代が延々と続いていたのは、7国の軍事力に大きな差が無いため統一が進まなかったとも言えます。
騎馬術の導入=圧倒的な軍事力の獲得 → 中国統一
であるなら、騎馬術の導入ができたのは、騎馬民族と国境を接する燕・趙・秦の3国のみ。
中国統一の可能性があったのは、この3国だけだったという事になりますね。
・・・・・これを書いていて思いました。
始皇帝の母=帝太后と嫪毐の関係について、司馬遷が盛り過ぎだろ!ってくらいに盛ったのは、 嫪毐が太后の相手にふさわし力量のある男性に見えなかったから・・・とか?
あるいは燕の易王の母と蘇秦、秦の宣太后と義渠王などに使われた、「私通」や「通じていた」という表現は、現代の不道徳とや不倫といった意味はなくて、男女関係も含めた協力関係にあった、という事だったりするのかもしれませんが・・・・・どうなんでしょ。
帝太后のそれはただの男遊びに映ったため淫乱だの巨根だの書きたい放題に書いたんですかねぇ。
前回、嫪毐は魏の宰相だった長信候なんじゃね?ということを書いたわけですが、
この本の下巻では、魏の長信候は許綰と書かれています。
許綰(きょわん)で調べると中国には「許綰の知恵」という諺?があるようで、古代の知恵者の1人であったと推測されます。
ならば魏や秦で重く用いられるのも頷けます。
ちなみにその場合、長信候は魏では許綰と名乗り、秦では嫪毐と名乗ったことになりますが、范雎も秦では張禄と名乗っていた(『史記 范雎列伝』)そうなので、国によって名前を変えるというのは珍しくないのかもしれません。
嫪毐=許綰
許綰→きょわん→きょかん→巨漢→巨根
・・・で嫪毐は巨根、とかじゃないですよね?
嫪毐を探せ! 実は魏の宰相だった⁉️
『エイラク』の俳優さんじゃないですか❣️
始皇帝の母ということは、あの趙姫のドラマってことですよね。
嫪毐さんも登場しますよね?
結論として、私は嫪毐は魏の宰相だった長信候だと考えています。
なぜそう考えるに至ったかを書いていきたいと思います。
↑
『キングダム』の嫪毐さん
- 幼帝即位直後の太后に、男とイチャコラする余裕はない
嫪毐(ろうあい)は始皇帝の母=趙姫と私通して子どもももうけ、最後は反乱を起こし殺された巨根の男性ということになっています。(『史記 呂不韋列伝』)
司馬遷さんもさ、趙姫は淫乱だの嫪毐は巨根だの、エロい男性雑誌の見出しじゃないんだから😅
ご自身も宮刑(去勢による処罰。子どもの魏冉がやられそうになったやつ)とか過酷な体験をされてるから・・・・・その辺も関係しているのかな?
エンタメはエンタメでいいと思います。
ただ、実際は?と考えると、嫪毐が趙姫の単なるセックスパートナーだった、なんてことはあり得ません。
そこはあえて断言させてもらいます。
始皇帝が即位したのは、趙姫が始皇帝と共に趙から隣国の秦にやって来て、まだ数年しか経ってない頃です。
后として後宮での生活に慣れるべく奮闘していたことでしょう。
急に夫が亡くなって、わずか13歳の我が子が王に即位するなど想像もしていなかったと思います。
中国では幼帝が即位した場合、その母が息子に代わって国を治めることになっていますから、幼い我が子の即位はつまり自分自身が王位に就くのと同義です。
現代で考えたって、それまで普通に母として過ごしていた女性が、ある日突然、大会社の会長に就任して会社経営の舵をとれと言われたらどうすると思います?
不安、恐怖、困惑・・・趙姫の心境は察するに余りありすぎです。
それでも、やらねばなりません。
そんな時、何を求めますか?
間違いなく、趙姫に必要だったのは、政治に長けたパートナーです。
(ユエさんは武に長けたパートナー=義渠王でしたね)
そして、見知らぬ異国にありながら趙姫がパートナーに選んだのは、顔見知りの呂不韋ではなく嫪毐だったわけです。
こんな極限の状態で、巨根の男と楽しくセックスライフ♪とか、あるわけないじゃないですか!!
2. 長信候は秦国外に領地がある
『史記 始皇本紀』にも嫪毐についての記述があります。
(こちらには淫乱だの巨根だのはありません)
「(政が王位に就いて)8年、秦王の弟長安君成蟜が謀反の末殺され、黄河が氾濫し、嫪毐が封ぜられて長信候となった。山陽の地を与え…事大小となくみな毐によって決せられ…太原郡を毐の封地とした。」
注目したいのは長信候と山陽の地。
趙姫については、NHK
中国王朝 よみがえる伝説 悪女たちの真実
のシリーズでも取り上げられていました。
こちらはその中の画像です。
番組でも言ってましたが、嫪毐に与えられたとされる二つの土地はどちらも秦の国外にあります。
太原は趙、山陽は魏です。
山陽は魏のかなり奥地にあるのです。
3. 嫪毐は長信候
次に、もう1つの注目ポイントである、嫪毐が称されることになった長信候について。
(ちなみに呂不韋は文信候)
この文字を「嫪」「毐」も合わせて、他の文献であたってみました。
あたってみたのは、やはり古代中国について書かれた『戦国策』。
私が見つけられたのは、2つ
・『魏 三 三百二十六』に長信候
・『魏 四 三百五十八』に嫪氏
(正確には3つで『楚 二百十二』にも春申君が残念な最後を迎えた同じ年に嫪毐の乱があったという記載があります)
「魏三 326」は、秦との戦いに負けた魏の王が、秦に行くと言うのを臣下が必死に止める話です。
楚の懐王が秦に行って、そのまま幽閉されて死んじゃいましたからね〜
そんな何されるか分からない他国に、自国の王を行かせるわけには行きません。
あれこれ説得して何とか秦行きを思いとどまりますが、「でも秦の応候(范雎)に行くって言っちゃったから」と心配する魏王。
「大丈夫。うちには長信候という応候(范雎)と仲良しさんがいるじゃないですか。彼から応候(范雎)に“魏王は行けないって”と取り計らってもらいましょう」ということで、魏王は秦に行きませんでした。(めでたし、めでたし)
魏には長信候という相がいて、長信候は秦の宰相である范雎=応候と親しい、ということが分かります。
私はこの長信候が嫪毐だと思うのです。
「魏四 358」はかなり直接的です。
秦の国内は呂不韋につくか嫪毐につくか騒然としています。
魏は嫪毐につきましょう!という話。
こちらはそのままですね。
秦は呂不韋と嫪毐の二大巨頭が政権を争っていて、秦国内だけでなく他国もどちらに与するか迷っていた様子が窺えます。
嫪毐が魏の宰相だった長信候なら、魏としては選択の余地はなく嫪毐一択でしょう!
嫪毐=魏の長信候なら、政治に長けていたはず。
政治経験は呂不韋より長いのではないしょうか。
前述した通り、嫪毐の封地の1つが魏にありますが、秦が封じたのではなくて、もともと魏の宰相時代に山陽に封じられていたのかもしれません。
『史記 始皇本紀』に、事の大小に関わらず嫪毐が決めていた、とあって、呂不韋との政権争いは嫪毐が優勢で、だからこそ『戦国策 魏四 358』で魏は嫪毐につこうとしていたと見ることもできます。
こうして『戦国策』の記述から当時の状況を鑑みるに、趙姫が政治のパートナーに選んだのが、呂不韋ではなく嫪毐だったのは十分に頷けると思うのは私だけでしょうか。
『戦国策』はこちらの全釈漢文大系シリーズ23・24・25を参照しました。
とても読みやすく、分かりやすかったです。
天才少年「項橐(こうたく)」を探せ!
47話のセリフの中に登場した項橐(こうたく)という少年の名前。
どうにも引っかかって仕方がない。
孔子の師
孔子さんは謙虚な方だったそうだから、いろんな人を師を仰いだというのはあるだろう。
7歳
こっちだな〜 孔子さんの7歳の子どもとの逸話、どこかで聞いたことがある・・・・・
ということで、せっせと探して、ようやく見つかった!!
今昔物語
巻10第9話 臣下孔子道行値童子問申語
正直なところ、今昔物語だったかはさだかでないが、道を塞いだり、意味不明な問答をやったりだったように思うのでこれだろう。
そして、今読んでもどこがポイントなのかさっぱり分からない。
友人に話したところ、NHKでそれやってたよ、と教えてくれた。
空旅中国 「英雄たち8つの峠」
今はオンデマンドで観れるから、ありがたい!
本当にあるんだ、孔子さま御一行を遮った村が。
攔車村の「攔」には遮るという意味があるとかで、文字通り「車をさえぎった村」。
それにしても、砂遊びで往来を妨げちゃダメだろ。危ないし。
孔子さまも屁理屈をこねる子どもを師と仰いでないで、こういう時こそ懇々と説いてください。
道路で遊んではいけないよ、と。
勝手に道を塞いだ子どもを項橐に違いない!と思っている、違っていたらごめんなさい。