太后たちの私通 ユエさんと義渠王の結婚など
私が主張したいのは私通って言うな!!
じゃあ何と言えばいいかって?
官職の付与とか、位を授けると言う意味の叙位とかでいいのではないでしょうか。
自分を守るため、家族を守るため、国を守るためにやるしかない行為を私事(わたくしごと)で表現しませんよね?
前回も書きましたが、幼い息子の即位は母である自分が王になるのと同義です。
国を治めるのは大事業ですから、1人ではできません。
他の人の助力が必要です。
国政において、武が足りなければ武に長けた、文が足りなければ文に長けた、強力な助っ人が必要なのです。
協力の証として、男女の関係になるのもありでしょう。
そもそもこの時代の王族の結婚は最大級の公的行事で、個人の感情は後回しなのに、太后の男関係だけ好いたはれた言うのはヘンですよ。
国を治めにゃならんのです。
四の五の言っておれんのです。
体くらい提供しますよ、減るもんじゃなし。
皇帝が幼い場合などに、皇后や太后といった女性が代わって政治を行う垂簾聴政(すいれんちょうせい)は、戦国時代のみならず清朝に至るまで、中国の歴代王朝の伝統です。
司馬遷が仕えた漢の武帝も、即位した当初は祖母の太皇太后に実権を握られていたわけだし。
宣太后は義渠王と男女の関係にあって、子どもを2人ももうけ、最後は殺した、というのは史実なんですね。(『史記 匈奴列伝』)
『ミーユエ』では易后と蘇秦がいい感じ❤️でしたが、史記によると、蘇秦の相手は易后ではなく易王の母とされています。
易王は母と蘇秦の関係を知って、ますます蘇秦を重用したとの事ですから、王位継承後の政権が不安定な時期に、太后が有力者と関係を築くことは、或いは積極的に推奨された行為だったかもしれません。
宣太后が義渠王に接近した理由は『ミーユエ』で黄歇が説明していた通りだと思います。
“隣国の趙では、武霊王が胡服騎射を推進した結果、趙軍は負け知らずになった。
これまでは、多くの戦車を持つことが大国の証だったが、時代遅れだ。
敵に打ち勝つには、強い騎兵がものをいう。
馬と共に暮らしてきた義渠軍は、騎馬術に長けるが、武器や戦術は得意でない。
秦軍は弩弓や甲冑を扱い、戦術を駆使する。
これに義渠軍の騎馬術を組み合わせれば、秦は天下無敵となる。”
(『ミーユエ』73話より抜粋)
(これを楚の春申君に言わせるのは、どうよ?とも思うわけですが)
北方騎馬民族というと長城を築いて侵入を防ごう!となりがちですが、発想を変えて、
彼らの技術を取りこうもう!
というのは、素晴らしい!!!
戦国時代が延々と続いていたのは、7国の軍事力に大きな差が無いため統一が進まなかったとも言えます。
騎馬術の導入=圧倒的な軍事力の獲得 → 中国統一
であるなら、騎馬術の導入ができたのは、騎馬民族と国境を接する燕・趙・秦の3国のみ。
中国統一の可能性があったのは、この3国だけだったという事になりますね。
・・・・・これを書いていて思いました。
始皇帝の母=帝太后と嫪毐の関係について、司馬遷が盛り過ぎだろ!ってくらいに盛ったのは、 嫪毐が太后の相手にふさわし力量のある男性に見えなかったから・・・とか?
あるいは燕の易王の母と蘇秦、秦の宣太后と義渠王などに使われた、「私通」や「通じていた」という表現は、現代の不道徳とや不倫といった意味はなくて、男女関係も含めた協力関係にあった、という事だったりするのかもしれませんが・・・・・どうなんでしょ。
帝太后のそれはただの男遊びに映ったため淫乱だの巨根だの書きたい放題に書いたんですかねぇ。
前回、嫪毐は魏の宰相だった長信候なんじゃね?ということを書いたわけですが、
この本の下巻では、魏の長信候は許綰と書かれています。
許綰(きょわん)で調べると中国には「許綰の知恵」という諺?があるようで、古代の知恵者の1人であったと推測されます。
ならば魏や秦で重く用いられるのも頷けます。
ちなみにその場合、長信候は魏では許綰と名乗り、秦では嫪毐と名乗ったことになりますが、范雎も秦では張禄と名乗っていた(『史記 范雎列伝』)そうなので、国によって名前を変えるというのは珍しくないのかもしれません。
嫪毐=許綰
許綰→きょわん→きょかん→巨漢→巨根
・・・で嫪毐は巨根、とかじゃないですよね?